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パタミュージック
網守将平
パタミュージック
2018.11.21
CD
NBL-225
¥2200 (without tax)
1. Climb Downhill 1
2. デカダン・ユートピア
3. いまといつまでも
4. ReCircle
5. ajabollamente
6. Climb Downhill 2
7. ビエンナーレ
8. 偶然の惑星
9. Washer
10. 蝙蝠フェンス
11. パタ
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毛利嘉孝氏によるアルバム解説:


もう一つの惑星の音楽(のようなもの)


 網守将平の二枚目のアルバムタイトルは『パタミュージック』と名付けられている。「パタミュージック」とは何だろうか。プレスリリースによれば、「音楽はまだ存在しない≒空想音楽≒パタミュージック」ということらしい。
 もちろん、ちょっと文学史に詳しい人は、「パタミュージック」という言葉がアルフレッド・ジャリの「パタフィジックス」(フランス語では「パタフィジーク」)から由来していることにすぐに気が付くだろう。「パタフィジックス」とは、メタフィジックス(形而上学)を超える、あるいは対抗する概念である。「パタフィジックス」は、現代科学をパロディ化して、ナンセンスな空想の哲学や文学を作り出す方法論として19世紀末にジャリによって提唱され、第二次世界大戦後には文学だけでなく、音楽や美術など広範囲な文化に影響を与えた。音楽ではビートルズやソフトマシーンなどが歌詞や曲名の中で「パタフィジックス」に触れている。
 とはいえ、一般に「パタフィジックス」のはっきりとした定義があるわけではない。それは、そもそも科学をパロディ化した空想の思想、哲学、芸術なので、荒唐無稽で、無意味で、はちゃめちゃで、夢想的なものはすべて〈パタフィジック的なもの〉として捉えることができるかもしれない。その意味では、マルセル・デュシャンやジョン・ケージのような芸術の徹底的な批判と嘲笑の試みもある種の「パタフィジックス」として考えることもできるだろう。

 とはいえ、おそらくここでこのアルバムのタイトルに過度に拘泥して、その歴史的な文脈から何か意味を引き出そうとするのは、あまり〈パタフィジック的〉ではない。むしろ一切20世紀的な文脈から切り離して、まずはこの『パタミュージック』を聴いてみよう。
 アルバムは、〈Climb Downhill 1〉というインストゥルメンタルから始まる。曲の間中くねくねとテンポがシームレスに変化するこの楽曲は、「エレクトロニカ」の批評としての前作『SONASILE』をさらにすすめる先鋭化する試みにも思えるが、しかし、その期待は二曲目で早くも裏切られる。網守自身がヴォーカルをとる2曲目〈デカダン・ユートピア〉(これは昨年Tokyo Arts and Spaceで開催された現代美術展『不純物と免疫』のタイアップ曲でもある)と3曲目〈いまといつまでも〉は、ノスタルジックな響きの漂う良質のポップスである。これらは、最近のJ-POPやエレクトロニカではなく、むしろ1980年代のエレクトロニック・ポップに対するオマージュのようだ。しかし、こうしたアルバムの全体的なトーンに対する予感もまた4曲目〈ReCircle〉、5曲目〈ajabollamente〉のメロディアスなインストゥルメンタル曲によって裏切られることになる。これらは映画音楽にもBGMにも聞こえるが、いたるところに仕掛けが込められており、奇妙なラウンジミュージックになっている。
 興味深いのは、このアルバムが依然としてアナログレコードのアルバムの形式を踏襲していることだ。アナログレコードB面の冒頭にあたる6曲目では、オープニングの続編である〈Climb Downhill 2〉がよりいっそう「くねくね」とシームレスな音の実験を繰り広げる。心地よいアタック音がマッサージのように空間を浮遊する〈ビエンナーレ〉は、再びロマンティックな網守のヴォーカル曲〈偶然の惑星〉へと引き継がれ、さらにそれは断片的にサンプリングされた声に印象的なヴィブラフォンの音が重なる音響曲〈Washer〉へと続く。このアルバムのポップス的な曲としては最後の楽曲〈蝙蝠フェンス〉は再び網守のヴォーカルからなるバラードで、クライマックスらしくこのアルバムの別の楽曲のテーマが断片的に回帰してアルバムの終演を予告するのだが、そうした大団円も、実際の最終曲である〈パタ〉によってはたまた裏切られることになる。
〈パタ〉は、〈Climb Downhill 1〉〈Climb Downhill 2〉を受ける実験的な音響曲である。アルバムのコンセプトである〈パタ〉を曲名につけていることから、この曲が、アルバムの中で特権的な役割を与えられていることがわかる。〈パタ〉は、冒頭の楽曲〈Climb Downhill 1〉にループ状に繋がる入り口でもある。
 このように順を追って書くと、一曲ごとに作風が違うおもちゃ箱をひっくり返したような統一感のないアルバムに聴こえるかもしれない。現代音楽から実験音楽、サウンドインスタレーションという実験的な試みからポップスまで幅広く手掛ける網守の音楽性の広さを示すアルバムといえば、そう言えなくもない。ありとあらゆる実験的試みを心地よいポップスとして回収するのが、今日のポピュラー音楽の特徴だとすれば、本アルバムはまぎれもなく2010年代後半の良質なポップ・ミュージックになっている。
 しかし、その一方でその表面的な不統一性にもかかわらず、アルバムを通して感じられるのはやはりある種の統一性である。その統一性を支えるのは、自らも歌ってはいるが同時にさまざまな歌手にヴォーカルを依頼した『SONASILE』と対照的に、全編にわたってヴォーカルを取る歌い手としての網守の存在であり、そのメロディである。必ずしも「研ぎ澄まされた」ものではなく、手作り的なざらっとした触感と一種の脱力感を残した歌とメロディが、このアルバムを特別なものにしている。この独特な感覚は、アルバムジャケットを担当した山本悠の秀逸なイラストレーションによっても象徴的に示されている。このアルバムの全体を支配している一種の触感と脱力感を〈パタフィジック的なもの〉として捉えるべきなのかもしれない。

 再び「パタフィジックス」に議論を戻そう。
 20世紀から21世紀へと転換することで、芸術表現のパラダイムが「表象(representation)」から「実践(practice)」へ移行した、というのは最近しばしば聞かれる議論である。20世紀の多くの芸術作品は、それがいかに空想的なものであれ、基本的な表現のモードは形式/内容の二分法、その外縁を画定するパッケージ化された「作品」、そして、それを生産する「作者」という一連の安定した形式の中で成立していた。それは、その形式/内容の組み合わせがどれほど恣意的で乱暴で、理解不能なものであっても、最終的に物質的な作品として生まれる表現と、その表現の特権的な制作者である作者によって表象の体系が保障されていたのである。20世紀に「パタフィジックス」と呼ばれた作品群も例外ではない。
 21世紀の表現のモードとして登場したのは、こうした「表象」を不可能にするような非物質的な実践活動である。現代美術では「関係性の美学」や「参加型芸術」、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」といった言葉で語られる表現のモードの登場が、この「表象」から「実践」へというパラダイム・シフトを端的に示している。こうした変化によって、一方で芸術文化は社会の中で散逸・拡散する一方で、特権的な作者の営為が、さまざまな協力者との共同作業に取って代わられつつある。
 では、音楽はどうなのか。
もともと、音楽は視覚芸術ほどはっきりとした物質的な外形が存在しない。したがって音楽は、ほかの表現形式ほど明確な表象の体系を持っていたわけではない。さらにいえば、音楽がほかの芸術様式と決定的に異なるのは、それが「表象」されるべき内容をそもそも持っていなかったという点である。「表象」が前景化するのは、印刷技術の発展とともに「楽譜」という記録メディアが(作曲家とともに)特権的な場所を獲得し、さらに録音技術の発達によってレコードやCDといった複製技術のメディアによって物質的根拠が与えられてからにすぎない。完結した楽曲という概念自体は西洋的・近代的発明にすぎないのだ。
 しかし、もともとそれほど強固ではなかった音楽の表象の形式は、音楽聴取をめぐる状況の変化の中で完全に変わってしまった。長大な交響曲は言うまでもないが、街で流れるヒット曲でさえも、最初から最後まで通してパッケージ化された楽曲として聞かれることは今ではほとんどない。デジタル技術の発達は数曲を集め40分程度に物語を構成するアルバムという形式も徹底的に解体してしまった。その一方で、異なる楽曲をミックスし繋ぎ合わせる技術は、プロのDJだけでなく、テクノロジーの簡便化によって一般の手にも流通しつつある。音楽は、どこにでも流れているが、いまではその表現文化としての特権的な地位は奪われ始めている。音楽は、限りなく断片化し、希薄化しているのだ。

 網守がこのセカンドアルバムを「メタミュージック」ではなく、「パタミュージック」と名付けたことは、興味深い。これまでの網守の活動は、おそらく「メタミュージック」という言葉で集約することができたはずだ。過去の音楽様式をあらかじめすべて踏まえた上で、ある状況において最適な解を提出すること。さまざまな音楽をいったん相対化した上で、〈メタ〉なレベルで音楽を作り出すこと。しかし、これ自体は決して網守の専売特許ではなく、「ポストモダン」と呼ばれた1970年代からの企ての多くはある種の「メタミュージック」の要素をはらんでいた。彼の特筆すべき点はそれを徹底化し、極限まで拡張しようとしたことにある。
 最近の音楽で、このような徹底化は、たとえばVaporwaveと名付けられたYouTubeを中心に展開してきた一連の音楽群に見出すことができる。1980年代のポップス、特に日本のシティポップとバブル前夜の消費社会に対する奇妙な強迫観念と異国趣味が混在するVaporwaveだが、その特徴は、過去に対する郷愁ではなく、その逆で音楽に関する徹底的な無関心にある。それは、音楽が終わったあとの音楽、人々が音楽に何の感情も動かさなくなった時代の音楽なのである。それは「メタミュージック」の一つの到達点なのだ。
 Vaporwaveを一つの極北とした時に、網守の「パタミュージック」はもうひとつの別の極に向かっているように見える。しかし、それは、あらためて「音楽」を単純に復権させることではない。むしろ、Vaporwaveと問題関心を共有しつつ、〈メタ〉ではなく〈パタ〉な視点を持ち込もうとしているのだ。冒頭に述べたように「パタフィジックス」とは、荒唐無稽な科学、SF的な思考である。それは、私たちが知っている世界とは似ているけれども、根本的なところで何かが異なるパラレルワールドで作られるようなある種の思考の在り方なのだ。「パタミュージック」が存在するとすれば、そうした場所であり、それは例えば私たちと同じような人間が生活し、進化している別の惑星で作られた〈音楽のようなもの〉なのである。
 本アルバムの一曲に〈偶然の惑星〉と名付けられた曲があるのは決して偶然ではない。いまある地球もまたいくつかありえたかもしれない惑星の可能性の一つに過ぎない。であれば、私たちが住んでいる地球とパラレルにーーー〈パタ〉ではなく〈パラ〉にーーー進化している地球もまたどこかにあるかもしれない。〈偶然の惑星〉とは、そうした場所ではないか。妄想をさらに膨らませれば、網守は、地球人とそっくりの相貌をした宇宙人が生み出すような〈音楽のようなもの〉を作りたかったのではないか。

 網守将平の奇妙さと魅力は、これまでの常識の中で組み立てられてきた〈いい音楽〉を作ろうという欲望がほとんど感じられないところにある。表面的な音楽のポップさとキャッチーさにもかかわらず、その〈音楽〉に対する態度は、なにやら宇宙人が〈音楽のようなもの〉を作ろうとしているように感じられる。そして、何よりもすばらしいのは、彼自身がそうした仕草を楽しんでいることだ。とすれば、私たちもまた網守とともに宇宙人のようにあらためて〈音楽〉というジャンルを発見して楽しむべきではないか。『パタミュージック』はそのように私たちを誘っている。


毛利嘉孝

網守将平『パタミュージック』レビュー

英The WIRE誌・ISSUE 149・January 2019より
https://www.thewire.co.uk


脱出用ハッチか、未来への入り口か、それとも両方か。
網守将平による陽気な新アルバムは形而超学的ななぞなぞ。

2ヶ月ほど前、ザ・ワイヤー誌のオフィスでは2つのレコードが何度もリピート再生されていた。私の頭の中ではさらにその二倍ほどの回数で、リピート再生がされていた。2つのレコードのうち1つ目は、「REM At The BBC」ボックスセットに含まれるトラック「Electrolite」の、1998年のピール・セッション(ジョン・ピールのBBCラジオ番組で録音される生演奏セッション)で録音されたものだ。前世紀に対する子守唄であり鎮魂歌でもあるこの音楽は(「20世紀、眠りなさい」というリフレインが何度も歌われる)、ドラムがメトロノームのように飛沫を上げ、ピアノがシャープな音を奏でながら優しく始まる。これはハリウッドの中を車で爆走する歌である。光に向かって車を走らせ、地平で車が何かに激突するのでは、と予感させる歌だ。そして2つ目のレコードがパタミュージックだ。東京を拠点に活動する作曲家、網守将平による二枚目のリリース。無数の事象が同時に沸き起こる状態を冷凍保存させた宝石箱のように、11トラックがピシッと収まっている。1998年から20年が経った今、20世紀は眠りについていて、夢を見ている。その夢が全て歌となって凝縮されたのがパタミュージックなのかもしれない。もしくは、20世紀はもう死んでしまったのかもしれない。そしてその死の体験をパシャッと切り取って捉えた、光へと飛び込んで行く直前のハイライト映像がパタミュージックかもしれない。

奇しくもパタミュージックのオープニングは目覚ましの音で始まる。電池の切れた目覚まし時計の音、そして複数の音階が聞き手の注意をギュッと集める「Climb Downhill 1」の始まりは、コーネリアスの「Point」を思わせる。しかしそこからペースは上がり、グネグネと動きを見せ始める。それはまるでエネルギーが注入されたかのようであり、誰かがターンテーブルのスイッチを33から45へと上げたかのようだ。そしてふいに加速されたノイズのトラフィックが、転がるようなベル音が、そしてチェロのフレーズが耳に飛び込んでくる。全てがミックスの中へと入れ込まれ、対角線で衝突する。様々なメロディーが、ピッチが変えられたり、スローダウンされたり、停止されたり、または加速させられて別のメロディーを追い越したりする。

街を車で走り抜ける、というよりは、街を捉えたインスタグラムのタイムラインが複数同時に無秩序に混ぜこぜになって表示されることで街を体験する、という現象に近い。アンビエント・ノイズが断続的に、そして耳に馴染みやすいメロディが勃発的に、音楽に登場し全体の一部としてまとめられる。どこを取っても、時間の流れは混乱している。古いテレビドラマにメロドラマチックな雰囲気を足すために使われていそうなオルガンのコード群が一定して展開されている背後で、ジェットコースターのようにリズムは忙しなく緩急しているのだ。トラックの最後の1分間は何らかの完了を示すものではない。むしろ増えて飽和状態になった音のインプットが、色鮮やかな無数のドローンとなって飛び去っていき、その後にレコードの針が奏でるようなパチパチパチという音が残される。

網守はアカデミックな経歴も持ち、音楽学校でのトレーニングも受けている。ポップミュージックから、オーケストラ・プロダクション、そしてテレビのサウンド・デザインやアート・インスタレーションのためのサウンドトラックまであらゆる分野の仕事をしてきた。これらは全て与えられた仕事として存在するものだ。彼は言う、このアルバムは「まだ存在しない音楽のような?想像上の音楽?パタミュージックである」と。パタミュージックとはアルフレッド・ジャリによる、しばしば馬鹿げている、言語学的かつ哲学的な戯曲にたいするオマージュとなっている。メタフィジックス(形而上学)が物理的現実から一歩離れたものであったとすると、パタフィジックスは二歩離れたものだ。つまりパタミュージックは、時空間の外側に奇妙に存在している。1970年代後半以降の(20世紀が見る夢!)前衛的なハイブリッドたちによる音楽ジャンルを駆使した遊びと冒険的なスタジオ録音を、今日の、画面をスクロールすれば時の流れを無視してデータサーバーから無限に提供される音楽と組み合わせたものがパタミュージックだ。それらが全て、中性子星のごとき密度で重ねられた地球外からの塊のように詰め込まれているのだ。

網守による、溶けるような位相とシフトするテンポに最も近いものとして私が思い浮かべるのはカール・ストーンがいくつかの作品で駆使する、リズム・フレーズのループが持つ歪みだろうか。しかしストーンの場合は、非常に緻密に編集されたフレーズ群がループされて連結された印象が強い。その中でフレーズの始まり方が違っていたり、時に位相から外れたり戻ってきたりするわけだ。ストーンは緻密な時計職人の神、といった具合だ。網守の世界構築法はより実地型、実践型と言える。スピード、位相、それぞれの音のコラージュの密度、各曲において常に正確に入れられるノスタルジックな音のヒント、といった要素を意のままに操っていながら、彼自身の存在感が大きく主張して出てくることは無い。すべての曲が完成して形成された状態で、魔法のように現れるのだ。

都会らしさが他と比べて薄い「Ajabollamente」ですら、フルート的なシンセサイザーとウッドブロックを打つ音を基盤に作られており、それがスピードを上下させながら前へ前へと突き進む音の連なりへと変わっていく。その慌てふためいたような音の活動が時折ギシギシと呼吸のような音で区切られている。ここには坂本龍一の1978年ソロ・アルバム「千のナイフ」の存在を聞き取ることができる。ここでのメインのテーマは、ワルツのようなモチーフとサーカスのねり歩きを思わせるものであり、坂本の「Grasshoppers」と「新日本電子的民謡 Das Neue Japanische Elektronische Volkslied」の間に問題なく収まるだろう。バックグラウンドでは不協和な音が鳴り響く。イーノによる「Here Come The Warm Jets」「Taking Tiger Mountain (By Strategy)」における情け容赦ないオーバーダビングのようである。しかし網守の場合、メロディが踊る最も上のレイヤーはどのようなイーノのプロジェクトよりもクリーンな仕上がりになっている。4分ほど聞いて、テーマが繰り返される。ここでの音はバッテリーが切れつつあるかのようであり、死にかけた念仏マシーンのようである。それが液体のように、どろっとしながら元に戻るのである。この進行が跳ね回り続ける。

不吉な感覚はどこにも無い。遊び心があり、礼儀正しさすらある。彼自身が歌っているいくつかのトラックでは、網守の声は落ち着いている。まるで自分の周りを取り囲む混沌を、少し警戒心を持って混乱している観客に向かって陽気に描写しているツアーガイドのようである。これはロバート・ワイヤット、ソフト・マシーン、2枚めアルバム「Pataphysical Introduction Part One & Part Two」におけるナレーション部分と同じ質感である。


網守による歌詞は日本語だが、多くのトラックは英語のタイトルがつけられている。タイトルからは空想的な、ここではないバーチャルなどこかが想像される。現実からは二歩ほど離れた場所…「デカダン・ユートピア」「偶然の惑星」といった具合だ。もしくは無限のループや反復を示唆するもの…「ReCircle」や「いまといつまでも」など。ポケットの宇宙が詰め込まれたこのレコードは、アルバム・アートにもそれが反映されている。タイトルから「パタ」の文字がアートの2/3ほどを占めている。PとTが太字で、ブロックのように柱になっており、Pの丸(はスマイルになっている)を囲っている。それはまるでスピーカーに人の顔が耳を澄ませている(Tの横棒が赤いスピーカーとなっている)ように見えるのだ。

SF作家のグウィネス・ジョーンズには「Bold As Love」というシリーズがあるが、パタミュージックはそのうちの一つを思い出させる。シリーズは2000年代初期に書かれたもので、三人組のミュージシャンたちがイギリス全体と世界から切り離された未来のイングランドの代替政府となるのだ。ハイテクであり、左よりのヒッピー風なブレグジットが、マイケル・ムアコックのヒーローたち(のような登場人物たち)によって、アーサー王伝説と相似する形で運営されるのがこのシリーズだ。そしてこの中にはとても感動的なシーンがある。三人の主人公のうちの一人がアルバム・トラックの一つをデザインし、それがバーチャルリアリティの家になっているのだ。素晴らしい装飾がされており、ディテールも描かれているVRの家を三人のうちの別の一人へと贈るのだ。三人はそれを起動させ、夢の家に足を踏み入れる。そこでイングランドの統治から一息の休憩をとり、プライベートな空間で三人で話をするのだ。この空間は三人にとって休息の場所であり、日常からの脱出用ハッチとなる。永遠に同じ場所であり、時間から切り離された場所だ。パタミュージックは完全なバーチャル体験ではないが、それでも時間を費やすには良い場所だ。未来に向けての戦略を練ったり、夢に時間を忘れたりできる。無限に続く今という時間が持つ、多面的な魅力を掘り下げることができる。


文:エミリー・ビック
訳:近藤司

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