南部真里氏によるアルバム解説:
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と太宰治の「走れメロス」という教科書でも目にするふたつのよく知られた小説を題材にした長尺の2曲「stella」「write once , rum melos」を収めたセカンド・アルバム『program music I』で、kashiwa daisukeはエレクトロニカ以降の音楽に残された可能性のなかで、どのような音楽を作り、どう作家性と折り合いをつけるかという課題に挑戦したのだろうか、それとも、あの孤高の音楽の構築物とでも呼ぶべき作品を(「一夜にして」という形容がふさわしいほど)涼しい顔をして作りあげたのだろうか、と思いながら、私は2作目から一年半ぶりに到着した新作の試聴盤をトレーに入れプレイボタンを押した。
ファースト『april.#02』と同じく、日付を意味する記号だけをタイトルに冠したサード『5 Dec.』は点描的なピアノが情景を喚起する「Red Moon」ではじまり、不穏な磁場を醸成したと思うと、2曲目の「Requiem」でそのムードを遮断する展開をみせる。いや、それは遮断ということではなく、「Red Moon」の空気のなかの「不穏」さが飽和点を越え滴りおちたとでもいえばよいか、それとも押さえつけた感情の底で渦を巻く激情を描写したとでもいえばいいのか、ポスト・エイフェックス・ツイン的なブレイクコアのトラックが急激に分裂と増殖を繰り返し、歪んだ音色のギターがその上をメタリックなスケールで上昇〜下降する「Requiem」はまるで、周囲には唐突でも主体にとっては必然的な感情の顕れを意味すると同時に、悲しみと怒り、静けさと激しさ、美しさと醜さは同じものを指す形容詞の裏と表にすぎないと、音のコントラストで語っているように思えた。ジャジー・ブレイクにジミヘンの亡霊が迷いこんだような「Bogus Music」、エラーを起こしたドラムンベースに乱反射するメロディをのせた「Taurus Prelude」、サイケデリック・ブリープ・ハウスとでも呼びたくなる「Black Lie , White Lie」とつづく5曲は10曲が収められた『5 Dec.』の前半のひとまとまりに、折衷主義的な方法論が通底していることを意味し、何度か書いたギターというロック・バンドのアイコンである楽器がここでは重要な意味をもってくる。kashiwa daisukeが福岡のyodakaというポストロック・バンドのメンバーであったことはファンにはよく知られていることだが、フロア(ダンス)とベッドルーム(リスニング)の対比で語られてきたIDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)としてのエレクトロニカに身体性を強調するやり方でエレクトリック・ギターを折衷した『5 Dec.』の前半はパーソナルなマス・ロックとも形容できるものだし、構造物としてはゴチックな、ダリオ・アルジェントとゴブリンが映画と音楽を補完させながらやろうとしたことを、ゼロ年代の磁場に移しかえたと穿ってみることもできる(あれほどあからさまな感情の強要はないのだが)。
kashiwa daisukeは6曲目の「Silver Moon」でギターからラップトップへ持ちかえ、後半では一転して電子音響とピアノの禁欲的な響きを前に出し、つつましく不安定な室内楽めいた7曲目の「Broken Device」の2曲で前半との対比を強調する。弦楽曲調の「About Moonlight」はストリングスのフレーズが電子音響のエラー音と干渉し、中盤にピークポイントを置いた『5 Dec.』はここから終点に向かい加速し、「Beautiful Sunday」と題名を付された10曲目はその曲名を踏みにじるように、SUN O)))とマシンビートが合体したような鈍い残響を残し消えるのだった。
『5 Dec.』はなにかのモチーフがあった前作に比べ、外部化した入り口がわかりやすく設けられているわけではない。しかしこうして全体を俯瞰すると、kashiwa daisukeにとって音楽を作る行為は音の重なりと連なりから構成(コンポジション)を抽出する作業なのではないかと、私には思える。kashiwa daisukeの作曲方法を実際に本人にたしかめたわけではないのでわらかないが、彼は何段かになった譜面の一意的な把握を無意識に行っており、それは聴覚のレンジを、ギターを弾くこと/ソフトウェアを操作することにおける身体を、引き裂く真逆のベクトルとして顕れる、もしくは彼自身がそう仕向けている。引き裂かれたふたつの傾向は一方が他方を駆逐するのではなく、『5 Dec.』に鏡像のように映りこんでいる。
もっとも映りこんだ先は割れた鏡なのかもしれないのだけど。
南部真里 |