野田 努氏によるアルバム解説
悪意とファンタジーがワールズ・エンド・ガールフレンド(以下、WEG)の音楽を解くキーワードだ。まだほとんど誰も彼のことを知らなかった頃のファースト・アルバム『ending story』には、そのふたつの要素のうちの悪意こそが強く輝いていた。情緒に浸りきった大人や真面目さにがんじがらめになった大人をせせら笑うポップ・エレクトロニックだった。『アイ・ケア・ビコーズ・ユー・ドゥ』の頃のエフェックス・ツインにも共通する無責任な悪意がWEGの出発点でもあった。“ワールズ・エンド”=“世界の終わり”、“エンディング・ストーリー”=“終わる物語”。“エンディング・ストーリー”とはもちろん“ネヴァー・エンディング・ストーリー”という健全なファンタジーの反語だ。とかく世の中には“終わり”をコンセプトにするミュージシャンは少なくないが、WEGはその出し方が情念に引きずられものではなかった。徹底してポップであるぶん、むしろ彼の“終わり”には冷酷なまでのニヒルな哄笑が渦巻いていた。音楽的に見てもWEGには、エイフェックス・ツインとコーネリアスとボーズ・オブ・カナダをこねくり回して吐き出したような妙な独自性があった。
そしてセカンド・アルバム『farewell kingdom』だ。“さよなら王国”である。WEGはこのアルバムで、ファーストの世界観を思えば予想だにしなかった抒情的な表現を綿密なまでに練り上げた。セカンドの制作前に、WEGは異常なまでにゴッド・スピード・ユー・ブラック・エンペラー!に共振している。その影響がどの程度あるのか実際のところ知る由もないが、“さよなら王国”にはファーストでこれでもかと展開されていた悪戯めいた展開はまったくと言っていいほどなかった。チェロやヴァイオリンなどの弦楽器を効果的に使用し、“さよなら王国”からはそこはかとない悲しみがみなぎっていた。また、音楽的に見て、WEGはこのアルバムで、彼の独自性をさらに明白なものに仕上げた。
“さよなら王国”をリリースしたあと、WEGは初めての海外でのライヴにも出向いた。スペインのソナー・フェスティヴァルはテクノ/エレクトロニカ系のイヴェントとしてはもっとも評価の高いもののひとつだが、WEGはそこでライヴをしたあと、ロンドンでも彼のねじくれたファンタジーを演奏した。WEGが敬愛するルイス・キャロルがおおよそ1世紀前に近代を楽しんだかの地で、WEGのライヴの評判は上々だったという。
さて、“さよなら王国”から1年振りのアルバム『dream's end come true』、“夢の終わりは叶う”である。もちろんこのタイトルは“ドリーム・カム・トゥルー”の反語だ。WEGの悪意とファンタジーはより精度を増している。1曲目の“singing under the rainbow”はエフェックス・ツインの“ガール/ボーイ・ソング”の WEGヴァージョンというか、ポップなメロディと繊細な弦楽器の音による壮大な展開とは裏腹に反復しながら壊れていくビートの相反する世界が同時進行していく。2曲面“caroling hellwalker”でWEGは、ファーストにあった冷笑めいたポップ・センスを引っぱり出し、抒情と躁状態を細切れに繰り返す。七尾旅人のヴォーカルがフィーチャーされている3曲目は今回のクライマックスだ。“すべての不完全なラヴ・ソング”と題されたこの曲には、おそらくWEGの世界観が集約されているだろう。WEGはこの曲に関して「一般的に言われるラヴ・ソングを聴いてもラヴ・ソングだとは思えなかった。音楽にされるってことは不完全だと思う。希望があるってことは不完全だと思う」とだけコメントしている。コラージュ的な手法を用いた最後の曲“wonderland falling tomorrow”は壮麗でさえある。ここで聴ける深い寂寥感は、“もののあはれ”という感性なのだろうか、曲の最後では“グッバイ”という言葉が繰り返されるが、いずれにせよ、なかばオブセッシヴにまで“終わり”を強調したがるWEGらしいエンディングと言えるだろう。実際、WEGにとって音楽制作は、「自分の音楽を終わらせようとしてる」ことがひとつの大きなモチベーションになっているという。
最後にひとつだけ注釈めいた事柄を付け加えておく。この音楽は日本と呼ばれるこの国に仕方なく生まれ、社会に属することなくしかし懸命に生きようとしているひとりの青年が全身全霊を込めて作り上げたものである。彼の東京郊外の小さな部屋から広がる哀しくも優しいファンタジーがここにある。彼の東京郊外の小さな部屋から広がる哀しくも優しいファンタジーがここにある。 |