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テニスコーツとセカイ
テニスコーツとセカイ
テニスコーツとセカイ
2008.08.08
CD
CXCA-1232
¥2381 (without tax)
1. メルトホルン
2. 2 o'clock
3. てんぐ
4. ターン
5. スベンスカ
6. Dasbon
7. ななつの
8. ゆきの
9. Flower Little Honey Well
10. タッチ・オン
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小田晶房氏によるアルバム解説:

 なにかしらの<気配>を感じたとき、耳の縁がこそばゆくなるのは俺だけか?
 あの、耳自体ではなく耳たぶから首筋にかけて数ミリ離れたところで何かが触れるか触れないか、いや触れているのか、どうなのか、とにかくゾクゾクとする感じ、狂おしいほどに心地よいあの感覚、それが俺にとっての<気配>。一般的に語られる人間の性感帯の中で、耳という部位が唯一日常生活で包み隠されることがないのは、耳が音を集めるだけでなく、そんな<気配>を感じ取るためのアンテナ機能を持っているからなんじゃないか、と思ったりしてる。耳が人それぞれ全然違う形してるのは、アンテナの種別の違いとでも言うべきか。それ以前に、耳って変な形しているし。

 そして、テニスコーツ、植野とさやの2人。

 彼らがライヴで奏でる音/音楽に対峙するとき、耳の鼓膜ではなく、その縁とちょいと外あたりで聴いてしまっている自分に気付く。そして、その得も言えぬ<気配>にドキドキする。グッと来る。時々泣きそうになる。でも泣かない。不惑を越えたオヤジは、そんなに簡単に泣いたりしない。ま、とにかくグッと来るのだけれど、その理由がまったくもって分からない。だって、具体的な何かが鼓膜の震えを通して、脳で反芻されるのではなく、単に耳の縁で<気配>を感じ取っているだけだから、だと思う。そういう音楽だとずっとずっと思ってる。ゆるゆるでずるずる、時にトロトロもアリ。
 が、しかし、ね。彼らの音/音楽を<録音物>として目の当たりにするとき、多くの場合、俺の耳はライヴの時とは異なるモードに入ってる。<気配>を求めているのではなく、ポップ・ミュージックとしてテニスコーツを聴いていたりする。あまりに美し過ぎる旋律と子供のような無邪気さを携えたとてもなまなましい言葉、空間に対して丁寧に配置していく幾つもの楽器らしい響き、そしてロックンロールへの愛情……本当だったらひとつの形になりようのないトロトロとした液状のものが、ミックスでどのような魔法を使ったかは知らねども、とにかく「このような形になるために、この曲は生まれてきた」ような、明確で強固な形に結実して鼓膜をビンと震わせる。で、それは、たぶん歌とキーボードだけでなくエンジニアリングを担当するさやの力に依るのだろうが、小さな積み木を試行錯誤で組み合わせながら大きな作品を作るのではなく、自身の脳裏にはっきりと描かれている設計図を元にして、巨大な石や大木から削り出しでひとつの造形物を堀り起こそうとしているから、じゃないかと思ったりしてる。だからこそ、作り方や外見こそ異なえど、彼らが愛するシャーデーやプリンスといった完璧なるポップス・マナーで仕込まれた作品と同様の匂いを感じさせるのだ。また、そこには、実は、聴き手の想像力を挟み込む余地や曖昧さがほとんどないようにさえ思えるわけ。

 そして、ようやくテニスコーツとセカイ。植野とさやとNSDとDASMANの4人。

 えっと……。今、俺が耳にしているこの録音物は、あなたが今耳にしているものとは少し、いや、かなり大きく異なるものだろう。その理由は後述するとして、とにかくこれはテニスコーツの作品ではなく、テニスコーツとセカイのコラボレートによって産み落とされた作品、ということ。コラボレートと言っても、商売人や糞メジャーが頻繁に行なう「1+1は2だから倍儲かっちゃうねぇ」的なことではなく、「1+1が大きな1に融合する」というもの。それは、テニスコーツがこれまで行なってきたtapeや梅田哲也&高橋幾郎、room40のローレンス・イングリッシュ、(これはバンドだけれど)DJ Klockとのcacoyと同系列にある代物だろう。なぜこのようなコラボレートが行なわれたかは深くは知らねども——実は、当初、さまざまなアーティストのコラボレート・アルバムを作る予定が紆余曲折を経て、セカイだけが残った、ということらしい——皆がよく分からないままのセッションから始まったもののよう。だからこそ、脳裏に地図があり彫刻を彫るように築き上げた(と俺が勝手に思っている)テニスコーツ作品とは異なる生々しい<気配>を感じさせてくれるものになっているのではないか。ある種暴力的でありながら丁寧でカッチリとした世界を作り出すセカイの周りを、テニスコーツならではの<気配>でコーティングしたかのような、土台のしっかりとした浮遊感がこのアルバムには存在しているように思える。
 ただ、こうしてよく分からぬ文章を書いている間にも、実はこの作品はどんどん深化を続けている様子。ひとたびミックスが終わり、マスタリングも終わった後(俺はこのタイミングの音を聴いている)、なぜか新たな歌が載ったり大きくミックスの変更がなされたりしている。普通ならあり得ないことだけれど、そこには何かしらの必然が存在しているはず。結果、当初の予定であった曖昧さの魅力を大きく逸脱して、テニスコーツらしい匂いがこのアルバムに充填され始めているということなんじゃないかな、とも思ったりしている。ただ、それでもセカイの2人の香りは異なる形でしっかりと残っていることだろうし、だからこそテニスコーツの2人だけでは絶対に産み落とせない音楽がここに残っているはずだ。
 テニスコーツの気配(kEhAI)とセカイ(sEcAI)との出会い(dEAI)は、想像を大きく越えて美しいものとなった。あと、<気配>と何度も書いているうちに、ふとそれが<きくばり>のように見えてきたわけだが、またそれは別の話だろう。

小田晶房(map/なぎ食堂)

福田教雄氏によるアルバム解説:

 聴いた時期が梅雨真っ只中だったからか、それとも、カエルの鳴き声ではじまっているからか。この音楽を聴いていると、ぼくの耳のなか、頭のなかに水滴が一粒一粒落ちていき、そしてタップンタップンと愉快な音を立てるのである。ということを感じ終えて、さてもう一度。と、再生してみると、はたしてさやさんは、こんな言葉で歌いはじめてくれるのだった。

 しずく数えてあがる雨

 雨はあがってしまった。でも、きっと良い雨だったに違いないだろうな。そんなことをいつも彼らの音楽は伝えてくれる。植野さんの書いた言葉で「自転車を漕ぎながらふと思う。自分は今何処か遠くから帰っていくような気がするぞ」というのがあって、ここでもまた彼は何処か遠くへ「行く」のではなく、遠くから「帰って」いくのである。こんなところからも、音が鳴ってからではなく、音が鳴るまでの長い長い間のことを、彼らはまさに音を鳴らすことで伝えてくれるのだ。そして、たとえ数秒後・数分後にその音楽が消えたとしても、なにかがずっと動いていく、形を変えていく、年老いていくのである。

 で、ぼくは、この音楽を聴いて、一緒に並んで歩いているような不思議な気持ちになってしまう。ぐんぐん、ぐんぐんと歩いていく。自然に胸を張って、なにか誇らしい気持ちでいっぱいになる。と同時に、ひとりぼっちでとぼとぼと、泣きたくなるような気持ちのようでもある。でも、とにかく進んでいくのだ。その歩調の確かさが、とくにこの作品は際立っているなあ、と思う。

 そして、歩を進めながら、ぼくはこんなものに姿を変える。……粉々にならないよう大事に拾ってきた乾いた木の葉。手のひらで包丁を入れられる豆腐。はじめて火をつけられるネズミ花火。並々と注がれて表面が膨らんだコップ酒。ピンセットで抜かれようとするとげ。子どもの両手に挟まれた、校門脇で売っていたヒヨコ。

 どれも注意が必要で、そこにはまん丸の大きな目玉が見守っている。気をつけて気をつけて……。慎重を要するからといって、臆病になってはやれない。そこにあるのは、傷つけないように、と祈る勇気のようなものかもしれない。音が鳴りやんだとき、ここに残ったのは、そういった、注意深い勇気みたいなものだったのだろうか。勇敢な彼らの音楽が、そしてまた一粒一粒、ぼくの頭上に落ちていく。勇敢な彼らの音楽が、まん丸の大きな目玉となってぼくを見守ってくれる。

 雨があがったら、ぼくはきっと良い雨だったなと思うに違いない。それが今からとても楽しみで、だからぼくは、一緒にこの音楽と並んで歩いていきたいな、と、心から思うのだ。波打ち際まで。

福田教雄

セカイ・プロフィール

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